神功皇后伝説

私の居住する北部九州には濃密に神功皇后の伝説が存在する。

神功皇后は戦前の国定教科書では「三韓征伐」をした女性として登場する。そのため戦前の教育を受けた人々にとってはよく知られた人物である。しかし戦後は一転してこうした記述は史実ではないとして否定されたことにより、現在その存在は一部の古代史ファン以外にはそれほど知られていないと思う。

そもそも「三韓征伐」とは何か?記紀によれば神功皇后は九州の熊襲を討つため、筑紫の香椎の宮に夫の仲哀天皇とともに滞在していた。その時、住吉の神が神功皇后に憑依し、天皇に向かって「海の向こうに国がありその国をおまえに与える。」と告げた。しかし天皇はその言葉を信用しなかったために神の怒りを買い急死する。天皇の死後、神功皇后は神の言葉に従って海を越えて遠征する。

やって来た神功皇后の軍勢に恐れ慄いた新羅王は神功皇后に服属することを約束した。同時に百済・高句麗も帰服したとされることからこの遠征を「三韓征伐」と呼んだ。

戦前においては、これを史実とすることで日本による朝鮮侵略を合理化する根拠として利用してきた。それが戦後になって史実としては否定されたことは上記した通りである。

しかしながら私はこの神功皇后の存在がずっと気になっている。北部九州のいたるところに神功皇后の伝説が存在するからである。山に登っても、海に出かけても、神功皇后の伝説に遭遇する。これらの伝説の多くは戦前の歴史学の影響で新しく生まれたものとは考えにくい。私はこれらの伝説は何らかの史実が反映されているのではないかと疑っている。

私はこれから旅先で出会った神功皇后伝説を収集していこうと思っている。それらについては随時このブログで公開していく考えである。

最後に最近出会った神功皇后伝説を挙げておこう。


福岡市西区に姪浜という地名がある。その語源説話である。

神功皇后は戦勝後、胎内に後の応神天皇を宿したまま、小戸付近の浜に上陸する。この浜に濡れた衣類を干して乾かした。この衣類は、古代において肌着と上着の間に着たもので「袙(あこめ)」と呼んだ。そのためこの浜を「袙(あこめ)の浜」と言うようになったが、それが後に訛って「めいのはま(姪浜)」と呼ぶようになった。

因みに応神天皇は宇美(現・福岡県糟屋郡宇美町)で誕生したとされる。現在この地には宇美八幡宮がある。

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ストーンヘンジ

英国の巨石建造物であるストーンヘンジのすぐ近くで遺跡が発掘され、大規模な住居跡が発見された。この発掘によってストーンヘンジが単独の遺跡ではなく、周辺の遺跡を含めた複合遺跡の一部という説に根拠を与えるいう。以下「ナショナルジオグラフィック協会」の記事から要約を記す。


発掘が行われたのはストーンヘンジから3キロほどのところに位置する「ダーリントン・ウォール遺跡」である。この遺跡は現在見つかっている中では最大の環状遺跡で、周辺は土塁に囲まれていて、内側には堀がある。直径は約420mで同心円状に巨大な木柱が立っている。

調査隊は8カ所の住居跡を発掘した。それぞれの住居は約5m四方で床は粘土でつくられ、中心部には囲炉裏があった。住居の床からは、箱形のベッドや、木製ドレッサーか食器棚の跡が発掘された。これらの住居は放射性炭素測定の結果、ストーンヘンジが建造されたのと同じBC.2600年~2500年のものであることがわかった。このことから、ここに住んでいた人々がストーンヘンジ建造に関わっていたと、調査隊は結論づけている。

ダーリントン・ウォールの環状遺跡の西側では、別の新石器時代の住居が2つ発見された。いずれも木の柱と溝で囲まれていて、少なくともあと3つの同様の構造物が同じ地域にはあるとみられている。

これらの住居は、ほかの住居から離れた場所にあり、共同体のリーダー的な存在だった人物が住んでいた可能性がある。あるいは、これらの住居からはゴミ類が全くと言っていいほど見つかっていないことから、宗教儀式に使われた神殿か祭儀のための建物である可能性もある。

発掘責任者のパーカー・ピアソンは、ダーリントン・ウォール遺跡は生命を祝福するためのもので、死者を川に流して死後の世界に送り出す役割をもち、ストーンヘンジ遺跡は、死者を記憶にとどめたり、葬儀を行うために造られたと考えている。

当時の英国のほかの地域で発見されたものとは比べものにならないほど大量の動物の骨や陶器がダーリントン・ウォール遺跡で見つかっている。そのことから、この遺跡は新石器時代にあらゆる地域の人々が集まり、大がかりな冬至の祭りが行われて、大量の食料を消費したと、パーカー・ピアソンは考えている(毎日新聞の記事によればここで発見された人骨の分析からヨーロッパ・アルプス付近の住民だった可能性があるという)。この場所で見つかったブタの歯を調べたところ、生後9カ月だったことから祭儀は冬至に行われたと考えられる。

パーカー・ピアソンによれば、祭儀の後に人々は道を通ってエーボン川に向かい、死者をストーンヘンジ遺跡に向けて流した。それから人々はストーンヘンジの道を通って巨石記念碑に向かい、数人の死者を選んで火葬にして埋葬した。ストーンヘンジ遺跡は、先祖を敬うこれらの人々にとって、死者の霊と交信する場所だった。

パーカー・ピアソンは「ダーリントン・ウォールは人が住むための場所であり、それに対しストーンヘンジは当時のブリテン島で最大の墓所だった」とみている。


ストーンヘンジは、建造目的とそれをつくった人々が誰なのか、について諸説があり結論は出ていない。ヨーロッパ古代史にとって解明されてない謎の一つだ。今回の発掘はストーンヘンジの今後の研究にとって大きな意味を持つだろう。

【関連リンク】

ストーンヘンジ(英国政府観光庁)

ストーンヘンジ(世界遺産ガイド)

Google Earthの旅(ストーンヘンジ)

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