PLUTO 005

今日、『PLUTO 005』を購入し、読んだ。

PLUTO 004』を読んでこのブログに記事を書いてから、丁度1年になる。
この作品は、”ビッグコミックオリジナル”に連載中だが、単行本になってから読むようにしている。1年に一度の楽しみなのだ。

さて『005』を読んでみても、作品の全容はいまだ姿を現さず、幾つかのヒントが提示されるのみだ。

その1つは、ロボット刑事ゲジヒトは、反ロボット主義者アドルフ・ハースの兄を惨殺した悪夢に苦しんでいる。その殺人の理由がどうやら”憎悪”であったらしいのだが、ロボットが憎悪を抱くというのはどういうことなのか?
そしてその憎悪こそが、この作品のテーマの1つであるらしい。

前回の『004』でアトムはプルートウと戦い”死んだ”。『005』でアトムの生みの親である天馬博士は、アトムを復活させるべく修復作業を行う。しかしアトムは生き返らない。天馬博士は自分がかつて「完全なロボット」を作ったことがあることを、お茶ノ水博士に話す。そのロボットは世界人口と同じ60億人の人格を分析してプログラミングして作られた。しかし、ロボットは”目覚めなかった”。目覚めさせる方法は、「60億の混沌を1つの方向に統率することだ」と、天馬博士は言う。そのためには”怒り・悲しみ・憎しみ”などの「偏った感情」を注入することが必要だと言う。

その「完全なロボット」が目覚めなかった理由とアトムが目覚めない理由が同じだということなのだ。したがってアトムを目覚めさせるには「偏った感情」を注入することが必要なのだが、それを行えばアトムは「怪物」となるかもしれない。それが天馬博士の考えなのだ。

ゲジヒトの抱いた”憎悪”もこの「偏った感情」の1つだ。人間とは常に「偏った感情」に翻弄される存在だ。しかし、ロボットは人間によって「偏った感情」を持つことがないように作られた存在のはずだ。しかし、ゲジヒトはこの感情を持ってしまった。
何故?

ところで、天馬博士の言う「完全なロボット」はプルートウなのだろうか?おそらく違う。
時おり登場する謎の”熊のぬいぐるみ”がいる。『005』ではこの”ぬいぐるみ”は、「この世界は、勝者と敗者、賢者と愚者、生者と死者でできているが、自分以外は敗者・愚者・死者だ。」と言う。唯一の”勝者・賢者・生者”を自認するこの”ぬいぐるみ”こそ「完全なロボット」なのではないのか。
そしてこのロボットこそ”ボラー”ではないのか?
これはぼくの根拠のない想像なのだが。

『005』の最後の部分ではプルートウの秘密らしきものが明かされる。プルートウとの戦闘により散ったヘラクレスに対しプルートウから無数の電磁波を発信されていた。そのほとんどは”憎しみ”だったという。しかし、一瞬”別のもの”が送られてきていた。
それは、・・・・

花園に1人の女性がたたずんでいる。
そして、彼女の発する「プルートウ・・・・?」という言葉で『005』は終わる。
彼女はプルートウの母親なのだろうか?

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PLUTO

PLUTO 004』を読んだ。
“PLUTO”シリーズは浦沢直樹が、手塚治虫の『鉄腕アトム』中の一作「地上最大のロボット」をもとに「ビッグコミックオリジナル」に連載を続けている作品である。私は昨年までに刊行された001~003は既に読んでいたが、004は新年になってから購入し今日読了した。

【関連リンク
Wikipedia - PLUTO

この浦沢作品は、ロボット“プルートウ”が世界中に7体存在するアトムを含む強力なロボットを破壊していくという筋立てこそ原作と共通しているが、その背景は全く違っているようだ。様々な国家・団体・個人が複雑に絡み合い全貌はいまだ霧の中にある。

これまでにおぼろげに見えてきたことは、原作ではプルートウを破壊する目的のためだけに作られたロボットの名前“ボラー”に秘密の核心があるらしいことである。(原作のボラーは巨大で強力なだけのロボットだった。)プルートウはこの“ボラー”を何故か恐怖している。そしてアトムの製作者である天馬博士がその秘密に関係しているらしいのだ。

004ではアトムはプルートウに挑み“死ぬ”。アトムはこれまでプルートウと戦い倒されたロボットのように粉々に破壊されたわけではない。体に損傷は見えない。おそらく何らかの形で復活するのだろう。

この作品は相当長期間にわたる連載になることが予想される。連載の中で手塚時代には見えていなかったロボットをめぐる様々な思想が取り上げられることになるだろう。

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ブッダ最後の旅

五木寛之のインド旅行記『仏教への旅』(インド編)上・下を読み終えた。来年NHKで放送される番組に向けて五木寛之がインドをはじめとしてアジア各国・日本・アメリカを旅し、そのインド編を書籍化したものがこの本である。

八十歳の仏陀が自らの死期を覚り最後の旅に出るその道中を70歳を超えた五木寛之がたどる。仏陀は「この世は苦である」と説き続けたが、その最後の旅では「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」と語る。

一見正反対とも思えるような二つの言葉をどう捉えればいいのか?様々に解釈できるだろうが、両方とも真というべきだろう。

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精霊の王

3週間ほど更新しなかった。時間がなかったわけではなかったが、精神的に余裕がなかった。

22日より「朝日新聞」にて夢枕獏の小説の連載が始まった。「宿神(しゅくじん)」という題だ。この小説の「序の巻」は「精霊の王」と題されている。これは2003年に出版された中沢新一の同名の論考に因むものである。この本において中沢新一は縄文に遡る古層の信仰形態の中心に存在する「シャクジ」なるものについて様々に論を展開している。実は「宿神」とはこのシャクジの別名である。

連載が始まったこの小説は歌人・西行とこの「宿神」との繋がりを主題とするものになるようだ。楽しみである。

※縄文の信仰については最近注目すべき出版がなされた。田中基(著)『縄文のメドゥーサ―土器図像と神話文脈 』 である。読後、ここで取り上げることになるだろう。

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