馬渡島

恒例、春の連休「島渡り」。

一昨年の小呂島(おろのしま)、昨年の玄界島、に続き馬渡島に今日行ってきた。

「馬渡島」と書いて「まだらしま」と読む。呼子の北西に浮かぶ島だ。
周囲14km、面積4.2k㎡で佐賀県最大の島。人口は約500人という。

呼子から定期船に乗り、名護屋を経由して40分ほどで到着した。

通常、こうした離島では船着場の周辺が島の中心集落のことが多いのだが、
この島では港の近くには人家が見当たらなかった。
昼近くのため売店を見つけて昼飯を買い込みたかったが、どっちへ行ったら
いいか分からず、とりあえず右に進んでみる。

しかし、しばらく進むと道は途切れ、ゴロゴロした石の転がる海岸線になっていた。

それではと今来た道を引き返し、反対方向に進んでみた。こちらが集落の方向だった。
一軒の売店が見つかったので、パンとお茶を購入する。

さてどこに行こうか?
今回は全く下調べをしていないので、どこに行ったら良いか皆目見当がつかない。
幸い案内板があった。表示された地図を見ると、「番所が辻」というところに展望台がある。ここまで徒歩で70分と書かれている。かなりの距離がありそうだが、船の最終便まで約4時間あり、行けない距離ではない。案内板には教会も表示されている。できればここにも行ってみたい。

歩き始めてしばらくすると、登り道になる。

何年も島歩きをしていると、以前にも同じ所を歩いたような錯覚にとらわれる。デジャビュという言葉が頭に浮かぶ。

道脇に濃いピンクのツツジの花が咲いている。その花の周りをクロアゲハが1羽飛び回っている。花と蝶の色のコントラストが実に美しい。デジカメを忘れたことが悔やまれる。
道端の所々に紫色のノアザミが咲いている。

ウグイスが山のあちこちで鳴いている。
トンビの声も聞こえる。

歩き続けるうち、路上に正露丸の様な黒い粒体を見つける。
この島は野生の山羊がいるということなので、その糞なのだろう。

勾配を増す道を歩き続ける。前方の高台に木造のやぐらが見えてくる。
ここが「番所が辻・展望台」だ。

立ってみると、周辺はすべてここより低く、島の最高点であることが分かる。
237.9mと表示してある。

ここが「番所が辻」と呼ばれている理由は、幕末期に黒船を見張った番所が置かれていたからだという。

展望台から周りを見渡してみる。

南側の佐賀県本土を見ると、ドーム状の2基の建造物が見える。これが玄海原子力発電所だ。「ここで今事故が起こったら」と思うとあまりいい気持はしない。

そこで反対側に目をやる。

平たく長い島影が見える。これが壱岐だ。

そう、正月にハーフマラソンで悪戦苦闘した島だ。その右側に見える小さな島が一昨年行った小呂島に違いない。

壱岐の左側に目をやると、水平線付近が陰っているように見える。天気が曇りであまり眺望がよくないが、もしかすると対馬が微かに見えているのだろうか?

展望台で買ってきたパンを食べ、しばらくするとウツラウツラとしだす。
島時間に心身を委ねる。これが島渡りの最高の快楽だ。

その時、携帯電話がけたたましく鳴り出す。電話に出ると、会社にかけられた電話が
転送されてきたものだった。相手と仕事関係の会話をする。この環境の中で仕事の話をしていることが不思議に思えてくる。
しばし島時間が仕事時間に切り替わる。

再び歩き始めると、また島時間にリセットされてくる。

前方に頂部にドームを乗せた建物が見えてくる。これが教会だ。
近づいて見ると白い外壁が美しい。

佐賀・長崎県の北岸の島々の多くにキリスト教禁教の時代に信者達が弾圧を逃れて信仰を貫いた歴史があるが、馬渡島もそうした理由でキリスト教徒が多い。
ここの教会自体は遥か後代のものだが、信仰の歴史を思うと感慨深いものがある。

教会を後にして、行きとは別の道を通って漁港に向かう道を歩く。

そして再び定期船に乗り、いつもの生活の場へ戻っていく。

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玄界島

私はこの十年ほどゴールデンウィークには近くの島に出かけることにしている。人出の少ない離島でボンヤリ1日を過ごすためだ。去年は小呂島に渡った。

最初に渡った島が玄界島だった。多くの方は「玄界島」という名前を、2005年3月20日の福岡県西方沖地震で壊滅的被害を受けた島として記憶されているだろう。

今日私は再びその島へ渡った。前回、少数の釣り客が乗っている他は閑散としていた客室は、今日は何故かほぼ満席だった。その理由は着岸してみてわかった。

島に「玄界島復興完了感謝祭」の看板が掲げられていたのだ。今日はその式典とイベントが予定されていた。そのため多くの人々が来島したというわけだ。

式典は12時半からなのでそれまでは前回と同様、島の裏側に行ってみることにする。玄界島は一周約4キロの島だが、前回は裏側は道路が途切れていて、一周できなかった。今回、行ってみると島の全周が道路で繋がれていた。

漁港からちょうど島の裏側に「柱島」という無人島が浮かんでいる。この島は福岡県西方沖地震で形が変わってしまった。次に掲げるのは今日撮った写真だ。

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                                                                                                                                  地震によって表土が崩落してこのような姿になった。以前はもっと草木が島の表面を覆っていたという。(その写真をWeb上で探してみたが見つからなかった。)

島を一周して式典会場に戻る。島の復興対策委員長の挨拶が胸を打つ。地震の日、全島民が島外へ避難しなければならなかったこと。そして3年を経て復興を成し遂げ、島民が島へ戻ることが出来たこと。その間の苦闘がしのばれる。

今回、玄界島へ来てみて島の変貌に驚く。斜面に建っていた全ての住居は建て替えられていた。(次は今日撮影した写真だ。)

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                                                                                                                                                     強固な島のコミュニティの存在と、島外からの支援が復興を可能にしたと思う。一方で阪神大震災後の神戸は今も孤独死が続いているという。これでは完全復興とは言い切れない。地震列島である日本は仮に大地震が起きても被害を最小限に止めること、そこから素早く復興出来ることが必要なはずだ。しかし現状はそこから遠い。

そうしたことを考えながら、振舞われた料理を食べ、イベントを見た。

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篠栗ハイキング

休日の今日、「篠栗春らんまんハイキング」に参加した。

歩き始めてしばらくすると山地に入るが、なおもアスファルト舗装の道が続く。米の山は頂上まで車道が続いている山なのだ。しかし途中からコースは歩 道に入る。晩春の新緑の山で色々な鳥の鳴き声が聞こえる。しかし鳥の種類が分かるのはウグイスだけだ。こんなとき鳥の鳴き声を聞き分けられたらどんなに楽 しいことだろう。

米の山は隣の若杉山とともに杉の多い山だ。途中名前のついた杉の巨木に何本か出会う。「綾杉」もその一つだ。神功皇后がこの山の杉を手折り香椎宮に植えたものが綾杉でその杉を分けて再びこの山に植えたことから「分け杉山」と呼んだという。それが後に「若杉山」となったとされている。(以前このブログで書いたことがあるが、福岡県は神功伝説の宝庫だが、若杉山周辺にも神功伝説が幾つかある。)

そしてこの山の最大の杉が「大和の大杉」 だ。私は今日まで実はこの杉の存在を知らなかった。今日はじめてこの杉を目にしたとき感嘆の声を上げそうになった。それほどの存在感を持つ杉だ。幹回り 16.15メートル・樹高40メートル。幹は何本かに分岐している。私はかなりのペースでここまでノンストップで登ってきていたが、この杉の前では数分間 佇み、巨樹のパワーを全身で受け止めていた。ところで、この杉の”発見”はそれほど古いことではない。2000年に「トウダの二又杉」 が林野庁により「森の巨人100選」に選出されたとき、地元住民から「もっと大きな杉がある」という声が役場に寄せられ、調査したところこの杉が発見され たということだ。「大和の大杉」という名前は、まだ成長中のこの杉が将来日本一の杉になって欲しいという願いが込められたものだという。福岡市民にさえほ とんど知られていないこの杉だが、全国民に知られていい巨木だと思う。

「大和の大杉」を過ぎると、ほどなくして車道に出てしばらく歩くと米の山の頂上だ。地元の住民や中学生が”しし鍋”を準備して迎えてくれた。頂上からの展望はすばらしいものだった。食事を終えてしばらく眺望を楽しんだ後、再びもと来たコースを引き返す。

いい休日になった。 

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沈鐘伝説

2週間ほど前、地元放送局(RKB)のラジオウォークに参加し宗像の地を11キロほど歩いた。その出発点は鐘崎の織幡(おりはた)神社だった。社名の「織幡」とは神宮皇后の三韓出兵の際に赤白の2幡を織り、これを竹竿に付けたことに因むという。この神社の参道横に直径3メートルはあろうかという大岩がある。今回はこの岩について書いてみようと思う。

織幡神社が鎮座する地「鐘崎」は万葉集にも読まれている。

ちはやぶる鐘(かね)の岬を過ぎぬとも
   われは忘れじ志賀の皇神(すめがみ)  ― 万葉集・巻7・1230

(訳)荒れ狂う鐘の岬を通過しても、わたしは忘れません、志賀島の神様を

鐘崎沖は古くから航海の難所として知られていた。そのためここを通過する船は志賀島の神に海路の安全を祈っていたわけである。この「鐘崎」という地名にはある伝説が関わっている。「鐘崎沖の海中には大陸から運ばれる途中に船もろとも沈んだ大きな釣り鐘がある」という伝説である。そのためこの地を「鐘崎」と呼ぶという。

多くの人々がこの「鐘」を引き上げようとしてきた。室町時代に宗像大宮司家代第75代領主・宗像興氏(おきうじ)は「伝説の鐘を引き上げよ」という命令を出した。捜索のすえ鐘が発見され龍頭(鐘を吊るす部分)に綱を結びつけ引き上げようとしたが、嵐となり海が荒れ狂ったため「海神のたたりであろう」として引き上げを断念した。

また江戸時代には筑前藩主黒田長政が引き上げを試み、このときは龍頭だけが鐘の本体からちぎれて引き上げられたという。

さらに大正9年に山本菊次郎という人物は巨費を投じて引き上げに挑戦し、ついに大鐘を引き上げた。ところが鐘と思った物体は30トンの大岩だった。その岩こそ織幡神社で見ることができる大岩である。

今も本物の釣鐘は鐘崎の海中の何処かに沈んでいると地元では信じられているという。

これが鐘崎沈鐘伝説と人々の引き上げ奮闘記だが、実は「沈鐘伝説」はここ鐘崎に限られたものではない。たとえば東京都墨田区の「鐘が淵」、兵庫県加古川市の「尾上神社」、青森県五所川原市「長円寺」などにも沈鐘伝説がある。これら各所の伝説はそれぞれ別の話になっている。これらの沈鐘伝説には何らかの関連があるのだろうか?それとも個別の伝承が各地に残っているのだろうか?興味深いテーマだがこれ以上の追求は今はできない。

【関連リンク】
織幡神社 ― 巨岩の写真あり
常磐津名所尽くし ― 鐘が淵の沈鐘伝説
加古川市観光協会 ― 尾上神社の沈鐘伝説
みちのく怪道まかせ ― 長円寺の沈鐘伝説

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小呂島(おろのしま)

私は10年ほど前から春の連休には居住する福岡県や近県の離島に出かけることにしている。今年は福岡市の小呂島に渡ってきた。「福岡市」と書いたが小呂島は渡船場のある福岡市姪浜から45キロほど離れた玄界灘に浮かぶ。渡船場から島までは65分の航程で、船は1日に1便~2便出ているのみだ。周囲3.4キロの小島だ。

私が離島を訪れるようになったのはできるだけ観光客の少ないところに行きたかったからだが、今回の小呂島行きはまさにそれにピッタリの旅となった。定員60名の船に乗り込んだのは数人の釣客と島に帰る一家族のみ。観光客らしい乗客は誰も見かけなかった。

船は能古島と志賀島を通過し、更に2年前の地震で大きな被害を被った玄海島を通過する。玄海島では多くの住宅が解体され、建設途中の住宅団地が船内から見える。玄海島を過ぎると、水平線が水蒸気でかすんでいるためなかなか島影が見えてこない。
ようやく見えてきた小呂島は玄海島とよく似た形をしている。急峻な山が海に切れ落ち平地はほとんどなさそうだ。住宅は山の斜面に作られている。

上陸した後、私は住宅の間の路地を歩いてみた。約1メートルほどの細い通りである。ほとんど観光客の訪れない島で住民とすれ違うのはなぜかばつが悪い。軽く会釈などして通り過ぎる。中には「こんにちは」と声をかけてくれる人もいてそんなときは私も挨拶を返す。

住宅地を通り過ぎると段々畑が続くところに出た。畑では女性達が作業をしている。彼女達は私の子供の頃によく見た農家の女性達が着ていた服装をしている。数十年前の懐かしい空気が辺りを包む。「ここは本当に21世紀の福岡市なのだろうか。」そういった不思議な思いが湧いてくる。

この道はこの先どこに続くのだろうか?私は事前に地図を調べずに来たことを後悔している。段々畑もなくなると道の両側は雑木林になる。その木々に何か短冊のようなものが点々と結わえ付けられている。その数は数十に達するだろう。それを見ると俳句のようなものが書き込まれている。どうやら子供達やその親、さらに教員が書き込んだもののようだ。たとえばその1枚は次のようだ。

「春の風、菜の花揺れて通学路」

そうか、ここは通学路なんだ。そうするとこの先には学校がある。短冊の中に「一臣」という署名の句が目立つ。この人は誰だろうか?
この人が何者であるかは島から帰ってから判明することになる。

しばらく進むと遠くに学校らしい建物が見えてきた。住宅地からは相当に隔たっている。子供達はこの山道をいつも通学しているわけだ。学校の校門に到着する。両側には「小呂小学校」と「小呂中学校」という看板が掛かっている。ここは小中学校合同の校舎なのだ。小さな島の学校としてはかなり広く感じる。後で調べたところではここはかつて軍の兵舎だったところだという。

学校を後にして再び海岸に出た。大小の岩が転がる海岸で弁当を食べた。福岡のコンビニで弁当を買い込んできたことは正解だった。この島に来てまだ売店を見つけることができない。食事をすませたあと岩の上に寝転がり持ち込んだ本を読んでいると、打ち寄せる波の音が心地よくいつしか眠気を催す。至福の時間が訪れる。
しかしこのままいつまでもここで寝ているわけには行かない。福岡行きの船の時間が迫っている。これを逃すと今日中に福岡に帰れなくなる。

再び船に乗り込み福岡への帰路に着く。約3時間の滞在だったが豊かな時間を過ごすことができた。また福岡での日常が始まる。


【参考リンク】

島めぐり・小呂島:小呂島に行かれる方にとって参考になるサイト。島の写真多数。

福岡市立小呂小中学校:小呂小中学校のWebサイト。ここに校長の平嶋一臣氏のページがある。おそらくこの人が上記短冊の「一臣」氏だろう。平嶋校長の多数の書き込みは小呂島について知るには大変参考になる。

玄界灘猫紀行:かつて小呂島は「猫の島」として知られていた。人口(約200人余り)より多い猫が生息すると言われていた。このページは1986年の記事で「猫たちの天国」と呼ばれた頃の島の様子が描かれている。しかし今回この島を訪れてみると見かけた猫は1匹のみだった。猫たちはどうなってしまったのか?

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