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生物と無生物のあいだ

気になっている本があった。

福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)という本だ。いつかは読みたいと思っていたのだが、そのままにしていた。しかしあるTV番組を見たことがきっかけで、本を買って読んだ。NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」という番組である。お笑いの「爆笑問題」が様々な分野の学者にインタビューをする番組だが、これに著者の福岡伸一氏が出演していた。この番組で福岡氏は「生命とは動的平衡である」ということを述べていた。これまでに聞いたことのない生命観だった。直ちに本を読まねばなるまい。

著者は現在青山学院大学教授の生物学者である。かつてアメリカのロックフェラー大学やハーバード大学で研究員をしていた。この本では様々な研究者を登場させながら20世紀の生物学史を叙述していく。とは言っても決して教科書的な文体ではない。小説的と言っていいような文体で書かれている。

一般には無名の一人の研究者が登場する。その名はルドルフ・シェーンハイマーという。1930年代後半にある極めて重要な実験を行った。その後、1941年に自死している。この実験とその結果については本を読んでいただきたい。そこで導き出された結論こそ、「生命とは動的平衡である。」というものである。

福岡氏は「動的平衡」について巧みな比喩で素敵な文章を書いている。かなり長いがそのまま引用しておく。題して「砂上の楼閣」。


遠浅の海辺。砂浜が緩やかな弓形に広がる。海を渡ってくる風が強い。空が海に溶け、海が陸地に接する場所には、生命の謎を解く何らかの破片が散逸しているような気がする。だから私たちの夢想もしばしばたゆたい、ここへ還る。

ちょうど波が寄せてはかえす接線ぎりぎりの位置に、砂で作られた、緻密な構造を持つその城はある。ときに波は、深く掌を伸ばして城壁の足元に達し、石組みを模した砂粒を奪い去る。吹き付ける海風は、城の望楼の表面の乾いた砂を、薄く、しかし絶え間なく削り取っていく。ところが奇妙なことに、時間が経過しても城は姿を変えてはいない。同じ形を保ったままじっとそこにある。いや、正確にいえば、姿を変えていないように見えるだけなのだ。

砂の城がその形を保っていることには理由がある。目には見えない小さな海の精霊たちが、たゆまずそして休むことなく、削れた壁に新しい砂を積み、開いた穴を埋め、崩れた場所を直しているのである。それだけではない。海の精霊たちは、むしろ波や風の先回りをして、崩れそうな場所をあえて壊し、修復と補強を率先して行っている。それゆえに、数時間後、砂の城は同じ形を保ったままそこにある。おそらく何日かあとでもなお城はここに存在していることだろう。

しかし、重要なことがある。今、この城の内部には、数日前、同じ城を形作っていた砂粒は一つとして留まっていないという事実である。かつてそこに積まれていた砂粒はすべて波と風が奪い去って海と地にもどし、現在、この城を形作っている砂粒は新たにここに盛られたものである。つまり、砂粒はすっかり入れ替わっている。そして砂粒の流れは今も動き続けている。にもかかわらず楼閣は確かに存在している。つまり、ここにあるのは実体としての城ではなく、流れが作り出した「効果」としてそこにあるように見えているだけの動的な何かなのだ。

(引用終わり)


これが何の比喩かおわかりだろうか?

「砂粒」は自然界を循環する水素、炭素、酸素、窒素などの主要元素であり、「海の精霊」は生体反応をつかさどる酵素や基質である。そうだとすれば「砂の城」とは生命そのものということになる。

私という存在は1年前も現在も同じようにここにあると我々は思い込んでいる。しかし原子のレベルでは1年前の私と現在の私はまったく別物なのである。「私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい淀みでしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れ自体が生きているということである。」

この生命観は仏教の「色即是空、空即是色」、あるいは「諸法無我、諸行無常」という言葉を想起させる。

「動的平衡」としての生命観は生命の本質に肉薄していると思う。しかしこの本でも「動的平衡」がどのような原理で維持されているのかについての説明は十分ではないように思う。ジグソーパズルの比喩を使っての説明はあるが、何故そのようなジグソーパズルができあがっているのかの説明はなお不十分だ。

そして生命誕生以前の世界から「動的平衡」としての生命現象がどのようにして立ち現れれてきたのか、についての解明はまだ遥かな先であろう。

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