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チンパンジー科

昨日の書き込み「ヒト科」に関して少し補足したいと思う。

ヒトとチンパンジーの遺伝的距離が極めて近いとすれば、グループ名は「ヒト科」でなく「チンパンジー科」でもよかったはずである。もちろんそうしなかったのは我々ヒトをチンパンジーのグループに入れることに分類学者が耐えられなかったからだろう。「チンパンジーはヒトの一種だ」ということならまだヒトとしてのプライドも守れるというものである。

ところでこのことに関してより本質的な問題がある。それはヒトとチンパンジーの共通祖先はチンパンジー的だったのか、それともヒト的なものだったのか、というものである。「ヒトはチンパンジーから進化した」のか、逆に「チンパンジーがヒトから進化した」のか、と言い換えてもいい。

このことを考える上で重要な化石の発見が西暦2000年前後に相次いだ。これら化石”人類”達はいずれも直立二足歩行をしたと考えられている。生存年代の古い方から順にあげる。

サヘラントロプス・チャデンシス (Sahelanthropus tchadensis)
約700万年前に生存。サヘラントロプスは「サヘル(サハラ砂漠の南)のヒト」の意味。また「トゥーマイ(現地語で生命の希望の意味)」という愛称で呼ばれている。
オロリン・ツゲネンシス(Orrorin tugenensis)
約600万年前に生存。オロリンは現地語で「最初のヒト」の意味。
アルディピテクス・ラミダス・カダバ(Ardipithecus ramidus kadaba)
約520万年~580万年前に生存。アルディピテクスは「地上のサル」・カダバは現地語で「祖先」の意味。

注目すべきはその生存年代の「古さ」だ。それまでヒトとチンパンジーの進化上の分岐はDNA解析から約500万年前とされてきた。ところが上記の3種の化石人類はこの年代よりも古いのである。そのため現在の通説は「分岐は約700万年前」と訂正されている。

しかし、上記3種を「ヒト・チンパンジー分岐」より以前の存在と考えることはできないのだろうか?つまり彼らはヒトとチンパンジーの共通祖先であると。仮にその考えが正しいとすると、直立二足歩行をするヒト的な動物からチンパンジーが進化して二次的に直立二足歩行をやめたということになる。「ヒトからチンパンジーが進化した!」

いずれにせよ「ヒトはいつどのような理由でヒト的な要素を獲得してきたのか」ということが解明されていく必要があるだろう。

【関連リンク】
最古の人類に迫る 700万年前の化石の謎」(日経サイエンス)
人間性の進化 700万年の軌跡をたどる」(日経サイエンス)

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ヒト科

チンパンジーはサルか?それともヒトか?

この設問に対してほとんどの人は前者の「サル」とお答えになり、「馬鹿げた質問だ」とお笑いになることだろう。しかし現在の分類学ではチンパンジーとゴリラをともに「ヒト科」に分類している。この分類にもとづけば答えは「ヒト」ということになるだろう。

こうした分類は1990年代に有力になった。その背景にはDNA解析によりヒトとチンパンジー・ゴリラとの遺伝的距離は従来考えられたものよりはるかに近いことが明らかになったことがある。チンパンジーとヒトのDNAの違いはわずか1~2%とされている。

さて、ヒトをその他の動物から分かつ定義は何か?
様々な定義が試みられてきた。例えば「直立二足歩行をする動物」であるとか「話をする動物」であるとか。その中に「道具を使用する動物」という定義がある。しかし昆虫や鳥などにもある種の「道具」の使用が知られている。例えばダーウィンフィンチの一種はサボテンのハリを使って木の穴の虫を取り出す。この場合の「サボテンのハリ」は道具ではないのか?

こうしてこの定義の改訂版が登場する。その定義は「道具を作る動物」というものだ。この定義だと該当するのはヒト以外にはないように思われた。しかしチンパンジーの道具の中には、余分な枝を落として使いやすくした棒のようなものが存在する。これは「道具を作った」といえないか?

そして最近、チンパンジーの道具使用に関連する2つの注目すべきニュースがあった。1つは「チンパンジーが4300年前に使った石器発見か」というCNNのニュースである。内容は「コートジボアールでチンパンジーが約4300年前にハンマーとして使ったと見られる石片が見つかった。」というものである。記事には「表面は磨耗し、この地域のチンパンジーが主食とする木の実のでんぷんが付着していた。現地に当時、人間が定住していた形跡はなく、石片は人間の手で持つには大き過ぎることなどから、チンパンジーの道具だった可能性が高いという。 」と書かれている。

もう1つのニュースは「セネガルに生息するチンパンジーがやりを作って狩の道具として使っている」という共同通信の記事である。以下に記事の全文を中日新聞から転載する。こうした「道具」をチンパンジーは何時から使用し始めたのだろうか?仮にヒトとの分岐以前からだとすれば、そのときの共通祖先をどう呼べばいいのだろうか。ヒトなのかサルなのか?


チンパンジーが武器製造・米の助教授ら確認

【ワシントン=共同】西アフリカ・セネガルのサバンナに生息するチンパンジーが木の枝からやりを作り、狩りの道具として使っていることが、米アイオワ州立大のプリーツ助教授らの観察で分かった。人間以外の動物による「武器製造」が確認された初のケースとみられるという。23日付の米紙ワシントン・ポストが、米科学誌カレント・バイオロジーに発表された論文の内容として報じた。

 同紙によると、同助教授ら米英の研究チームがセネガル南東に生息するチンパンジー35頭を数年間にわたって観察したところ、やりを使うような行動を22回確認した。

 チンパンジーは側枝や葉を落として平均約60センチの手ごろな長さにした枝の片端をかみ、やりのように鋭くした。これを使って樹木の空洞を繰り返し突き刺した。

 22回のうち3分の2は雌による行動で、1回はキツネザルに近い小型のサルであるガラゴの捕獲に成功したという。

 チンパンジーはこれまでも、木の葉をスポンジ代わりにして水を染み込ませて飲むなど道具を使うことが知られていたが、「食料を得る目的で道具を作るとは驚き。人間以外では初めてと言ってよいだろう」(南カリフォルニア大のスタンフォード教授)との声が上がっている。

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ちあきなおみ

ちあきなおみ という歌手がいた。
過去形で書いたが故人でもなければ「引退した」と本人が宣言したわけでもない。1992年に夫が死去した後、歌手活動を休止したまま現在に至っている歌手だ。平成生まれの方は知らない方も多いだろう。お笑い芸人コロッケのモノマネでご存知の方もおられるのではないか。あるいは古いテレビCMの「タンスにゴン」というのでご記憶の方もおられるだろう。

私にとっては初期のヒット曲に「四つのお願い」、「喝采」という曲があったことは記憶しているが、多くの人々と同様すでに過去の歌手だった。その ちあきなおみ に再評価の機運が高まり多くのTV番組で取り上げられるようになってきた。2月16日にもテレビ東京系の「たけしの誰でもピカソ」で特集された。

私はこの番組を見て ちあきなおみ が大変な歌手であったことを再認識した。彼女の熱心なファンの方からは「いまさら何を」と言われるだろうが。番組で彼女の歌を聴いているとその歌が描き出す世界へと誘われる。歌手としてのただならぬ力量を感じさせられた。

特に「朝日のあたる家」という楽曲にはブッ飛んだ。この曲はブリティッシュ・ロックのアニマルズの1960年代の名曲だ。その曲を浅川マキ(オフィシャル・ホームページ)が訳詩したものを歌っている。(この浅川マキも ちあきなおみ 以上に伝説の歌手と呼ぶべき存在だが、彼女についても何時かここで取り上げたい。)

♪私が着いたのはニューオリンズの朝日楼という名の女郎屋だった♪

という歌い出しのシャウトで一気にこの歌世界にぶち込まれる。その後淡々とした唱法に変化して物語を語っていく。情景が目に浮かぶ。そして最後に再び出だしの歌詞が歪んだ声でシャウトされる。凄い、ただただ凄い。

この番組を見て後、「朝日のあたる家」を含むCD『ちあきなおみ VIRTUAL CONCERT』を購入し、今そのCDをかけながらこれを書いている。収録されたどの曲も素晴らしい(特に「プラットホーム」、「紅い花」がいい)。これほどの歌手だったのか。

彼女の復帰を古くからのファンとともに望みたい。もし実現したら彼女には様々なジャンルの曲を歌って欲しい。どんなジャンルの曲を歌っても彼女の世界を作ってくれると思う。ロックではイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」やレッド・ツェッペリンの「天国への階段」等を聴いてみたい。

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ストーンヘンジ

英国の巨石建造物であるストーンヘンジのすぐ近くで遺跡が発掘され、大規模な住居跡が発見された。この発掘によってストーンヘンジが単独の遺跡ではなく、周辺の遺跡を含めた複合遺跡の一部という説に根拠を与えるいう。以下「ナショナルジオグラフィック協会」の記事から要約を記す。


発掘が行われたのはストーンヘンジから3キロほどのところに位置する「ダーリントン・ウォール遺跡」である。この遺跡は現在見つかっている中では最大の環状遺跡で、周辺は土塁に囲まれていて、内側には堀がある。直径は約420mで同心円状に巨大な木柱が立っている。

調査隊は8カ所の住居跡を発掘した。それぞれの住居は約5m四方で床は粘土でつくられ、中心部には囲炉裏があった。住居の床からは、箱形のベッドや、木製ドレッサーか食器棚の跡が発掘された。これらの住居は放射性炭素測定の結果、ストーンヘンジが建造されたのと同じBC.2600年~2500年のものであることがわかった。このことから、ここに住んでいた人々がストーンヘンジ建造に関わっていたと、調査隊は結論づけている。

ダーリントン・ウォールの環状遺跡の西側では、別の新石器時代の住居が2つ発見された。いずれも木の柱と溝で囲まれていて、少なくともあと3つの同様の構造物が同じ地域にはあるとみられている。

これらの住居は、ほかの住居から離れた場所にあり、共同体のリーダー的な存在だった人物が住んでいた可能性がある。あるいは、これらの住居からはゴミ類が全くと言っていいほど見つかっていないことから、宗教儀式に使われた神殿か祭儀のための建物である可能性もある。

発掘責任者のパーカー・ピアソンは、ダーリントン・ウォール遺跡は生命を祝福するためのもので、死者を川に流して死後の世界に送り出す役割をもち、ストーンヘンジ遺跡は、死者を記憶にとどめたり、葬儀を行うために造られたと考えている。

当時の英国のほかの地域で発見されたものとは比べものにならないほど大量の動物の骨や陶器がダーリントン・ウォール遺跡で見つかっている。そのことから、この遺跡は新石器時代にあらゆる地域の人々が集まり、大がかりな冬至の祭りが行われて、大量の食料を消費したと、パーカー・ピアソンは考えている(毎日新聞の記事によればここで発見された人骨の分析からヨーロッパ・アルプス付近の住民だった可能性があるという)。この場所で見つかったブタの歯を調べたところ、生後9カ月だったことから祭儀は冬至に行われたと考えられる。

パーカー・ピアソンによれば、祭儀の後に人々は道を通ってエーボン川に向かい、死者をストーンヘンジ遺跡に向けて流した。それから人々はストーンヘンジの道を通って巨石記念碑に向かい、数人の死者を選んで火葬にして埋葬した。ストーンヘンジ遺跡は、先祖を敬うこれらの人々にとって、死者の霊と交信する場所だった。

パーカー・ピアソンは「ダーリントン・ウォールは人が住むための場所であり、それに対しストーンヘンジは当時のブリテン島で最大の墓所だった」とみている。


ストーンヘンジは、建造目的とそれをつくった人々が誰なのか、について諸説があり結論は出ていない。ヨーロッパ古代史にとって解明されてない謎の一つだ。今回の発掘はストーンヘンジの今後の研究にとって大きな意味を持つだろう。

【関連リンク】

ストーンヘンジ(英国政府観光庁)

ストーンヘンジ(世界遺産ガイド)

Google Earthの旅(ストーンヘンジ)

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助走

11月に「助走」というタイトルでこのブログを始めてから3ヶ月ほどが過ぎた。

テーマも決めず流行のブログなるものを自分もやってみようか、といった軽い気持ちで始めたものだ。そのため本格的に開始するまでの、様々な設定方法などを学びつつ書くべきテーマを模索する準備期間として仮のタイトルとして「助走」を選択した。年があければタイトルを変更しデザインも変えリニューアルするつもりだったが結局そのまま現在に至っている。

当初は他人に読んでもらうことも期待せず、そして実際にアクセス数も一桁といった状態で推移していた。しかしどうしたことかこんな「助走」にも次第にアクセス数が増え、この3日間ほどは3桁に上っている。そうなってくるとこの「助走」というはなはだ不細工なタイトルにもある種の愛着を覚え始めている。

そこで当面はこのタイトルを続けてみようと思う。「おまえの助走はいつまで続くのか?お前の踏み切りはいったいいつなのか?」と問い詰められそうだが、そもそも人生というものはいつも助走と踏み切りの繰り返しではないのか。踏み切って着地してもそのときは次の助走を始めている。そして人の一生はそもそも死に向けての助走ではないのか。

そんなことを次のタイトルを見つけることができない怠慢に対する言い訳のように書いてみた。

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ピロリ菌

ピロリ菌について注目すべきニュースがある。 (毎日新聞 Yahoo!ニュース


(転載開始)
<ピロリ菌>人類感染は5万8000年前 日米欧チーム研究

胃かいようなどの原因とされるピロリ菌に人類が感染したのは、人類がアフリカにいた約5万8000年前とする研究成果を、日米欧などの合同チームがまとめた。また、地域や民族によってピロリ菌の遺伝子が違うことから、日本人の起源の解明など、人類の足跡を知る「証拠」にもなりうるという。7日付の英科学誌「ネイチャー」で発表した。

 チームは6年がかりで世界51民族、769人の胃からピロリ菌を集め、菌の遺伝子の違いを分析した。その結果、遺伝子は民族ごとに異なり、アフリカや欧州、アジアなど地域ごとに6種類に大別されるほか、人類が最初に誕生したとされる東アフリカを起源に変化してきたと考えるのが最も合理的との結論を得た。人類がアフリカから各地に移住し始めたのは約5万年前とされているが、遺伝子の変化を逆算し、最初の感染時期はさらに約8000年さかのぼるとみられる。

 ピロリ菌の遺伝子を比べると、例えば北米の先住民と日本人が似ているほか、在米アジア人は2世までアジア人タイプのピロリ菌を持っており、ヒトの遺伝子を使った解析よりも詳しい移住の歴史が解き明かされる可能性もあるという。

 チームの山岡吉生・米ベイラー医科大准教授(分子病原学)は「ピロリ菌は、人類史初期のアフリカ時代から人類を胃炎で悩まし、まるで遺伝のように受け継がれているらしいことが分かった。菌の感染経路や、国や地域によって胃がんの発生率が違う原因の解明などにもつながるはず」と話している。【山田大輔】

 ◇ピロリ菌…胃の中にいる細菌。胃や十二指腸のかいようを起こすことを豪州の研究者が解明し、05年のノーベル医学生理学賞を受賞した。先進国の中で日本は感染率が高く、国民の約半数が感染しているとされる。感染者は胃がんの発症率が5~10倍高いとの研究がある一方、大部分は生涯症状が出ないという。

最終更新:2月8日3時6分
(転載終了)


ピロリ菌は正式名称をHelicobacter pylori(ヘリコバクター・ピロリ)呼ぶ細菌だ。ヘリコバクターとはらせん形の細菌という意味である。強酸性の胃液に覆われた胃の中には細菌は生存できないとかつて考えられたが、そこに生きていたのがこの細菌だ。こいつは胃炎、胃潰瘍、さらには胃癌の原因と考えられている。

私は以前、数年おきに起こる胃潰瘍に悩まされていた。病院で検査してもらうとピロリ菌陽性と判明、薬による除菌を行った。これによりあれほど苦しんだ胃痛から開放された。皆さんの中で繰り返し胃潰瘍を起こす方には一度ピロリ菌の検査を受けられ、陽性の場合は除菌されることをお勧めする。(胃潰瘍があれば保険適応)

感染原因は完全には解明されていないが、次の4ルートが考えられているという。(「ピロリ菌と慢性胃炎・胃潰瘍・胃癌のサイト」参照)

(1)糞口感染・・・・感染者便中からピロリ菌が検出されることから、水洗トイレの普及していない地域での井戸水を介した感染か、「ハエ」「ゴキブリ」などが感染の媒介になっているとの説。

(2)家族内感染(口~口感染)・・・・口腔内(唾液)からピロリ菌が検出され、「母親から子への感染」「父親から子への感染」「兄弟同士の感染」など全て確認されてる。感染するのは主に子供で、親子間のキスや家族一緒の食事が感染原因の可能性がある。

(3)施設内感染・・・・保育所・幼稚園での小児の集団生活が感染源という説。

(4)医療感染・・・・・消毒の不十分な医療行為(胃カメラ、歯科治療など)が原因いう説。

成人になってからのキスによる感染の可能性については否定説が多いが、危険性を指摘する研究者もあるようだ。

さて、冒頭の記事だが、そのピロリ菌の遺伝子分析により東アフリカでヒトは58,000年前に最初にピロリ菌に感染したことがわかるという。これは「ミトコンドリア・イブ仮説」の裏づけになると思う。さらに、アフリカから世界中へのヒトの移住の歴史も解明できる可能性があるという。「ピロリ菌人類学」とでも呼ぶべき研究の進展が楽しみだ。

【参考リンク】

ヘリコバクター・ピロリ(Wikipedia)

ピロリ菌事典

マイカルテクラブ医学シリーズ

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消えた半ズボン少年

「消えた半ズボン少年」(産経新聞2月7日)というニュースに目がとまった。

記事は「半ズボン姿の男の子がいなくなった。」と書きだす。

「半ズボンはいかにも活発で、きりっと男の子らしくもあり、あどけなさを感じさせるものだった。しかし、ファッション誌を読みなれた母親達は、子供服でも個性やセンス、かっこよさを重要視するようになった。」(子供服関係者)

半ズボンが消え始めたのはいつごろか?諸説あるが、昭和と平成の境目の頃だという。原因としては、ヒップホップのファッションや、サッカーやバスケットの漫画の影響でハーフパンツが注目されるようになったことがあげられている。

また、下着がブリーフからトランクスやボクサーブリーフに変化しつつあり、下着が見え易いため半ズボンが敬遠されている、とも書かれている。


半ズボンについて私には一つの思い出がある。小学校高学年のとき私は農村から地方都市に転校してきた。その時はまだ寒い季節だったにもかかわらず男の同級生達はみんな半ズボンだった。田舎では夏以外は半ズボンをはかなかった。私は半ズボンに「都会」を感じていた。

しかし、その後は田舎でも男の子達は半ズボンを冬にもはくようになっていく。こうして半ズボンは小学校までの男の子達の象徴的ファッションとなる。

その半ズボンが近年消滅しつつある。記事は上記のいくつかの理由をあげているが、もっと根本的な要因がありはしないか?「可愛く元気」という子供観が大人の間で変化しつつあるのではないか?そのために「可愛く元気」の象徴だった半ズボンが消滅しつつあるのではないのか。

半ズボンの消滅とともに小学生の女の子達のスカート丈もかつてより長くなっているように思う。(極限的にまで短くなった女子高生のスカート丈に反比例するように。)

大人とは違う世界に住んでいた子供達が「小さな大人」になりつつあるのではないか。そのように大人にとっての子供が変わりつつあるのではないのか?

【関連リンク】

半ズボン(Wikipedia)

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どろろ

映画「どろろ」(公式ホームページ)を見た。手塚治虫原作の実写版映画化である。

戦国時代とおぼしき時代。醍醐景光(かげみつ)という武将が天下取りを祈願し、その代償として魔物に対しこれから生まれてくる子供の体を差し出す。そのため子供は48ヶ所の体の部分が欠損した状態で誕生する。子供は母親により川に流される。寿海という男がその子を拾いあげ、欠損した体の部分を作成して補い育てる。

成長した子供は百鬼丸と名乗り、魔物と戦い奪われた体の部分を奪還していく。旅の途上、どろろという少女と出会い同行する。どろろは父親を醍醐景光に殺害され、また母親も行き倒れて死んでいる。そのため醍醐景光を仇として付けねらっている。

百鬼丸は醍醐景光の城下で景光の息子多宝丸と出会う。多宝丸の母親は百鬼丸を見て自分が産んだ子供(その子も多宝丸と名付けられていた!)であることに気が付く。百鬼丸は多宝丸と戦い多宝丸は死ぬ。醍醐景光は百鬼丸を倒すためにそれを阻止しようとした母親(自分の妻)を切り殺す。

そしてクライマックスは百鬼丸と醍醐景光との対決となる。

この映画は自分の失われた部分を奪い返すことにより真の自分に近づいて行くという成長物語としても解釈できるように作られている。しかしCG等の映像はキッチュで手塚作品の実写化ということで期待して見る人は失望するかもしれない。

私はこの映画を見て、いたる所に既視感を覚えた。醍醐景光の城はまるで「千と千尋の神隠し」の「油屋」にそっくりだし、魔物との対決シーンは「HERO」のアクションシーンそのものだった(と思っていたら撮影に「HERO」のチン・シウトン監督が参加していた。Yahoo!映画参照)。魔物が人間の子供をさらって餌にしているという話などは「西遊記」になかっただろうか?

手塚作品の映画化としての思い入れをなくしてみれば、十分に楽しめる映画だ。

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東国原

お笑いタレント・そのまんま東氏が宮崎県知事選に当選し、東国原英夫知事として登場して2週間ほどが経過した。新知事は就任直後から鳥インフルエンザ対策に奔走し、また今日の報道では知事選挙での対立候補に対し副知事就任を打診したという。しかし、ここで書こうとするのはそうした彼の知事業務や政治活動についてではない。彼の本名・東国原という姓についてである。

この姓「東国原」は、姓が検索できるサイト「全国の苗字(名字)」によれば全国に11世帯存在する。また、姓名研究家の牧野恭仁雄氏によると、この姓は国分市(鹿児島)の東側に位置する末吉町に集中しており、そこで発祥した名前と考えられ、国分の東側という意味で「東国原」になったと推測されるという。(以上「ZAKZAK」記事)

次に「東国原」の「原」を「ばる」という読みについて取り上げてみよう。「原」を「ばる」と読む地名は九州地方に頻出する。私の居住する福岡県には、思いつくだけでも前原、桧原、屋形原、春日原、白木原など幾つも存在する。他に佐賀県には中原、大分県には長者原、宮崎県には西都原などがある。

この「ばる」の語源については、韓国・朝鮮起源説、古日本語起源説などがあるという。(「~原」を「はる」「ばる」と読む地名参照。なお、同ページでは独自の語源説が展開されている。)

さらに、この「ばる」と、カンダハルの「ハル」、ハンブルグの「ブルグ」、クアラルンプールの「プール」等との関連を考えている人も存在する。(新・古代学の扉

「原(ばる)」の背後には壮大な歴史的・地理的広がりを感じさせるものがある。

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古謝 美佐子

古謝美佐子のコンサートに行ってきた。

彼女のコンサートに行くのはこれで4回目である。夫でキーボード担当の佐原一哉と夫婦漫才のような掛け合いを交えながら進行した。彼女の歌は太くうねるような響きを持つ。地声の強さが印象的だ。

今回のコンサートでは、「南洋数え歌」や「黒い雨」のような戦争にまつわる曲を多く取り入れていた。また語りの中でも戦争や沖縄の基地について取り上げていた。彼女はこれまでこうしたことをコンサートで語ることはなかった。孫を持つ年齢になり、また沖縄の近年の状況に危機感を抱くようになったということのようだ。

また「竹田の子守唄」、「五木の子守唄」といった子守唄のメドレーも心に響いた。「竹田の子守唄」は70年前後のフォークソングの時代には良く歌われていたが、最近は放送されることがなくなっていた。佐原一哉の話によるとこの歌は被差別部落で歌われてきたために、放送局が自主規制するようになったということである。この曲がこんな理由で人々に知られなくなることは、愚かなことであり残念なことである。

終わり近くに名曲「童神(わらびがみ)」が歌われた。古謝美佐子が孫のための子守唄として作曲した曲である。強くやさしい彼女の歌は心と体の中心部を振るわせてくれた。

【関連リンク】
赤い鳥 名曲 竹田の子守唄(曲が聴けます。)

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