馬渡島

恒例、春の連休「島渡り」。

一昨年の小呂島(おろのしま)、昨年の玄界島、に続き馬渡島に今日行ってきた。

「馬渡島」と書いて「まだらしま」と読む。呼子の北西に浮かぶ島だ。
周囲14km、面積4.2k㎡で佐賀県最大の島。人口は約500人という。

呼子から定期船に乗り、名護屋を経由して40分ほどで到着した。

通常、こうした離島では船着場の周辺が島の中心集落のことが多いのだが、
この島では港の近くには人家が見当たらなかった。
昼近くのため売店を見つけて昼飯を買い込みたかったが、どっちへ行ったら
いいか分からず、とりあえず右に進んでみる。

しかし、しばらく進むと道は途切れ、ゴロゴロした石の転がる海岸線になっていた。

それではと今来た道を引き返し、反対方向に進んでみた。こちらが集落の方向だった。
一軒の売店が見つかったので、パンとお茶を購入する。

さてどこに行こうか?
今回は全く下調べをしていないので、どこに行ったら良いか皆目見当がつかない。
幸い案内板があった。表示された地図を見ると、「番所が辻」というところに展望台がある。ここまで徒歩で70分と書かれている。かなりの距離がありそうだが、船の最終便まで約4時間あり、行けない距離ではない。案内板には教会も表示されている。できればここにも行ってみたい。

歩き始めてしばらくすると、登り道になる。

何年も島歩きをしていると、以前にも同じ所を歩いたような錯覚にとらわれる。デジャビュという言葉が頭に浮かぶ。

道脇に濃いピンクのツツジの花が咲いている。その花の周りをクロアゲハが1羽飛び回っている。花と蝶の色のコントラストが実に美しい。デジカメを忘れたことが悔やまれる。
道端の所々に紫色のノアザミが咲いている。

ウグイスが山のあちこちで鳴いている。
トンビの声も聞こえる。

歩き続けるうち、路上に正露丸の様な黒い粒体を見つける。
この島は野生の山羊がいるということなので、その糞なのだろう。

勾配を増す道を歩き続ける。前方の高台に木造のやぐらが見えてくる。
ここが「番所が辻・展望台」だ。

立ってみると、周辺はすべてここより低く、島の最高点であることが分かる。
237.9mと表示してある。

ここが「番所が辻」と呼ばれている理由は、幕末期に黒船を見張った番所が置かれていたからだという。

展望台から周りを見渡してみる。

南側の佐賀県本土を見ると、ドーム状の2基の建造物が見える。これが玄海原子力発電所だ。「ここで今事故が起こったら」と思うとあまりいい気持はしない。

そこで反対側に目をやる。

平たく長い島影が見える。これが壱岐だ。

そう、正月にハーフマラソンで悪戦苦闘した島だ。その右側に見える小さな島が一昨年行った小呂島に違いない。

壱岐の左側に目をやると、水平線付近が陰っているように見える。天気が曇りであまり眺望がよくないが、もしかすると対馬が微かに見えているのだろうか?

展望台で買ってきたパンを食べ、しばらくするとウツラウツラとしだす。
島時間に心身を委ねる。これが島渡りの最高の快楽だ。

その時、携帯電話がけたたましく鳴り出す。電話に出ると、会社にかけられた電話が
転送されてきたものだった。相手と仕事関係の会話をする。この環境の中で仕事の話をしていることが不思議に思えてくる。
しばし島時間が仕事時間に切り替わる。

再び歩き始めると、また島時間にリセットされてくる。

前方に頂部にドームを乗せた建物が見えてくる。これが教会だ。
近づいて見ると白い外壁が美しい。

佐賀・長崎県の北岸の島々の多くにキリスト教禁教の時代に信者達が弾圧を逃れて信仰を貫いた歴史があるが、馬渡島もそうした理由でキリスト教徒が多い。
ここの教会自体は遥か後代のものだが、信仰の歴史を思うと感慨深いものがある。

教会を後にして、行きとは別の道を通って漁港に向かう道を歩く。

そして再び定期船に乗り、いつもの生活の場へ戻っていく。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

第23回 壱岐の島新春マラソン大会

今日、第23回壱岐の島新春マラソン大会に出場した。

去年初めてこの大会に参加したが、この時は5キロだった。今回はハーフマラソン。
ハーフは昨年のシティマラソン福岡に次いで2回目だ。福岡ではネットで1時間53分台
だったが、今回は練習不足だったので、2時間を切ることを目標にする。

雪がちらつき、強風が吹き付ける寒気の中スタートとなる。
走り始めてしばらくするとペースも安定し、呼吸も楽になる。あ、これはいけそうだ。
5キロ過ぎにかなりの上り坂があったが、これも苦しまずに乗り切る。その後も10キロ付近までは気持ちよく走った。

しかし、後半は苦しんだ。

八幡半島を走り、折り返しの左京鼻へ向かう。この間2つの大きなアップダウンがある。
上りで苦しみ、下りでも思うようにペースを回復できない。途中で折り返しを済ませたトップ選手がすれ違う。何というスピードだ!
こちらも何とか折り返しを回る。ここで残り約6キロほど。これは毎朝走っている距離だ。
しかし、今回の6キロは練習の6キロとはまるで違った。

疲れた腿は上がらなくなる。加えて猛烈な向かい風が行く手を遮る。膝も痛み出す。
前半の走りとはまるで違ってくる。足を置きにいくような走りになる。

残り1キロの表示。たった1キロ。だが気持は「まだ1キロも走らなければならないのか・・・」

ゴールのゲートが遠くに見えてくる。しかしそのゲートは走れど走れど一向に近づかない。
沿道の人々が私を見て大きな声で声援を送ってくれる。苦しそうに走るランナーを励ましたいのだろう。

もう記録なんかどうでもいい。早くあのゴールに辿り着きたい。

そして、そのゴール。

記録は1時間57分台。終盤のあの走りでも一応2時間は切れた。とりあえず合格としよう。

ゴールしてアクエリアスを貰う。一息に飲み干す。水分が全身に吸収されるのが分かる。
レース途中で1度だけ水分補給したが、それほど喉が渇いたという意識は無かったのだが、実際には水分が体から失われていたのだろう。被っていた帽子が汗でびしょ濡れになっていたことに驚いた。

今年はあと2回ハーフを走ろうと思っている。目標は1時間50分を切ること。
そのためには練習の質・量を相当増やす必要があるだろう。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

ハーフマラソン・デビュー

シティマラソン福岡2008 のハーフマラソンを走った。

これまで去年の「シティマラソン福岡」と今年の「壱岐の島 新春マラソン大会」に参加しているが、どちらも5キロだった。後者についてはブログに書いたが、そのなかに今年の目標を「ハーフマラソン完走」と書いた。

というわけで、ハーフマラソン完走は年初からの目標だった。
当初はそれに向けて練習計画を組んでいたのだが、仕事の忙しさにかまけてまともに練習できなかった。「シティマラソン福岡」にエントリーはしたものの大会1カ月前の段階では、制限時間内の完走は諦めムードだった。

「もしかしたらいけるかも?」と思い始めたのは、油山を10キロ走し大濠公園を16キロ走したあたりからだった。思いのほか走れたのだ。それでもハーフの距離を練習で走ることなく本番に突入してしまい、今日は不安一杯でスタートを迎えた。

しかし数千人のランナーの集団に交じりスタート地点に向かうにつれ、ワクワク感が増してきた。「今日は精一杯楽しもう」という気持ちになる。そしてスタート。

オーバーペースになることを警戒していたが、この大集団の中ではそうはなりようもなかった。それが良かったと思う。ゆっくり走っているうちに次第に心地よくなってくる。ランナーズハイの状態なのだろうか。そのうちにややランナー間の間隔が広がりだし、自分のペースも少し上げてみる。それでもさほどキツサは感じない。

そのうちに遥か先で折り返した、トップグループとすれ違う。スピードがまるで違う。その中には猛スピードで走る女性も交じっていた。スゴイ!

折り返してもまだ余裕がある。これならいける。しかし16キロを過ぎた辺りから左足の甲に痛みを感じだし、脚も重くなる。練習で16キロまでしか走っていなかった”つけ”が回ってきた。ゴールのヤフードームは見えているだがそれが実に遠い。最後はドームを周回した後、フィールドに入りフィニッシュ。

完走証をもらい記録を見ると、1時間56分台。スタートラインを越えてからの時間では1時間53分台。2時間10分の制限時間内で完走出来ればいいと思っていたので、これは上々の出来だ。それでも60歳代の優勝タイムは自分より30分以上早い。恐るべき先輩達。60歳になったときにはそのレベルを目指したいものだ。

来年の菜の花マラソンでフルマラソンを、とも考えていたがまだまだそのレベルには程遠いことが分かった。しばらくハーフを走り続けよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

玄界島

私はこの十年ほどゴールデンウィークには近くの島に出かけることにしている。人出の少ない離島でボンヤリ1日を過ごすためだ。去年は小呂島に渡った。

最初に渡った島が玄界島だった。多くの方は「玄界島」という名前を、2005年3月20日の福岡県西方沖地震で壊滅的被害を受けた島として記憶されているだろう。

今日私は再びその島へ渡った。前回、少数の釣り客が乗っている他は閑散としていた客室は、今日は何故かほぼ満席だった。その理由は着岸してみてわかった。

島に「玄界島復興完了感謝祭」の看板が掲げられていたのだ。今日はその式典とイベントが予定されていた。そのため多くの人々が来島したというわけだ。

式典は12時半からなのでそれまでは前回と同様、島の裏側に行ってみることにする。玄界島は一周約4キロの島だが、前回は裏側は道路が途切れていて、一周できなかった。今回、行ってみると島の全周が道路で繋がれていた。

漁港からちょうど島の裏側に「柱島」という無人島が浮かんでいる。この島は福岡県西方沖地震で形が変わってしまった。次に掲げるのは今日撮った写真だ。

Photo_4




                                                                                                                                  地震によって表土が崩落してこのような姿になった。以前はもっと草木が島の表面を覆っていたという。(その写真をWeb上で探してみたが見つからなかった。)

島を一周して式典会場に戻る。島の復興対策委員長の挨拶が胸を打つ。地震の日、全島民が島外へ避難しなければならなかったこと。そして3年を経て復興を成し遂げ、島民が島へ戻ることが出来たこと。その間の苦闘がしのばれる。

今回、玄界島へ来てみて島の変貌に驚く。斜面に建っていた全ての住居は建て替えられていた。(次は今日撮影した写真だ。)

Photo_5




                                                                                                                                                     強固な島のコミュニティの存在と、島外からの支援が復興を可能にしたと思う。一方で阪神大震災後の神戸は今も孤独死が続いているという。これでは完全復興とは言い切れない。地震列島である日本は仮に大地震が起きても被害を最小限に止めること、そこから素早く復興出来ることが必要なはずだ。しかし現状はそこから遠い。

そうしたことを考えながら、振舞われた料理を食べ、イベントを見た。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

篠栗ハイキング

休日の今日、「篠栗春らんまんハイキング」に参加した。

歩き始めてしばらくすると山地に入るが、なおもアスファルト舗装の道が続く。米の山は頂上まで車道が続いている山なのだ。しかし途中からコースは歩 道に入る。晩春の新緑の山で色々な鳥の鳴き声が聞こえる。しかし鳥の種類が分かるのはウグイスだけだ。こんなとき鳥の鳴き声を聞き分けられたらどんなに楽 しいことだろう。

米の山は隣の若杉山とともに杉の多い山だ。途中名前のついた杉の巨木に何本か出会う。「綾杉」もその一つだ。神功皇后がこの山の杉を手折り香椎宮に植えたものが綾杉でその杉を分けて再びこの山に植えたことから「分け杉山」と呼んだという。それが後に「若杉山」となったとされている。(以前このブログで書いたことがあるが、福岡県は神功伝説の宝庫だが、若杉山周辺にも神功伝説が幾つかある。)

そしてこの山の最大の杉が「大和の大杉」 だ。私は今日まで実はこの杉の存在を知らなかった。今日はじめてこの杉を目にしたとき感嘆の声を上げそうになった。それほどの存在感を持つ杉だ。幹回り 16.15メートル・樹高40メートル。幹は何本かに分岐している。私はかなりのペースでここまでノンストップで登ってきていたが、この杉の前では数分間 佇み、巨樹のパワーを全身で受け止めていた。ところで、この杉の”発見”はそれほど古いことではない。2000年に「トウダの二又杉」 が林野庁により「森の巨人100選」に選出されたとき、地元住民から「もっと大きな杉がある」という声が役場に寄せられ、調査したところこの杉が発見され たということだ。「大和の大杉」という名前は、まだ成長中のこの杉が将来日本一の杉になって欲しいという願いが込められたものだという。福岡市民にさえほ とんど知られていないこの杉だが、全国民に知られていい巨木だと思う。

「大和の大杉」を過ぎると、ほどなくして車道に出てしばらく歩くと米の山の頂上だ。地元の住民や中学生が”しし鍋”を準備して迎えてくれた。頂上からの展望はすばらしいものだった。食事を終えてしばらく眺望を楽しんだ後、再びもと来たコースを引き返す。

いい休日になった。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

木喰

木喰(もくじき)という彫刻家がいる。
江戸時代後期に大量の仏像を彫った人物だ。江戸期の仏像彫刻家といえば円空が有名だ。木喰は円空ほどには一般に知られていないだろう。(いま、記事を入力中に”円空”は変換できたが、”もくじき”は”目次記”となってしまった。)

今日、福岡市博物館木喰展を見に行った。私は木喰仏(木喰が制作した仏像をこう呼ぶ)を直に見るのは初めてだったが、これまでに味わったことのない種類の感動を覚えた。例えば次にリンクする2体の像をご覧頂きたい。

薬師如来像

自身像

如何だろうか?
この独特な微笑が木喰の特徴なのである。なんとも表現のしようのない微笑だ。しかし、木喰仏の全てが微笑んでいるわけではない。例えば、不動明王像などは微笑んではいない。(今回の展覧会では不動明王像が数体展示されており、そのうち一体は傑作と呼ぶべきものだったが、残念ながらWeb上に発見することはできなかった。)

木喰の仏像制作の時期は30年に及ぶ。しかし、最初の仏像を作ったときは既に60歳を過ぎていた。つまり彼の制作期間は以後90歳を過ぎるまでということになる。当時としては例外的な93歳という長寿を得た人物なのだ。

彼は22歳のときに出家している。そして45歳の時に木食戒を受ける。これが”木喰”という名前の由来となる。”木食戒”とは五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち、山菜や生の木の実しか口にしないという、厳しい戒律である。

木喰は全国行脚に旅立つのだが、既に56歳だった。その後、93歳で亡くなるまで蝦夷地(北海道)から鹿児島まで、日本列島のほとんどを遍歴しつつ、仏像を彫っている。その間、佐渡に4年間、日向(宮崎県)に7年間留まったのを例外として、一箇所に留まることは少なかった。

今回木喰展を見て、88歳を超えてからの最晩年の作品に傑作が多いことがわかった。独特な微笑みも最後に全面開花している。

木喰は仏像だけでなく、書画にも独特なものを残している。これらもWeb上で探してみたが適当なものが見つからなかった。是非、展覧会へ行かれるか出版物でご覧頂きたい。

最後に、木喰の短歌を2首。

みな人の 心をまるく まん丸に
どこもかしこも まるくまん丸

まるまると まるめまるめよ わが心
まん丸丸く 丸くまん丸

(この記事はWikipediaの木喰の項を参考にしました。)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

PLUTO 005

今日、『PLUTO 005』を購入し、読んだ。

PLUTO 004』を読んでこのブログに記事を書いてから、丁度1年になる。
この作品は、”ビッグコミックオリジナル”に連載中だが、単行本になってから読むようにしている。1年に一度の楽しみなのだ。

さて『005』を読んでみても、作品の全容はいまだ姿を現さず、幾つかのヒントが提示されるのみだ。

その1つは、ロボット刑事ゲジヒトは、反ロボット主義者アドルフ・ハースの兄を惨殺した悪夢に苦しんでいる。その殺人の理由がどうやら”憎悪”であったらしいのだが、ロボットが憎悪を抱くというのはどういうことなのか?
そしてその憎悪こそが、この作品のテーマの1つであるらしい。

前回の『004』でアトムはプルートウと戦い”死んだ”。『005』でアトムの生みの親である天馬博士は、アトムを復活させるべく修復作業を行う。しかしアトムは生き返らない。天馬博士は自分がかつて「完全なロボット」を作ったことがあることを、お茶ノ水博士に話す。そのロボットは世界人口と同じ60億人の人格を分析してプログラミングして作られた。しかし、ロボットは”目覚めなかった”。目覚めさせる方法は、「60億の混沌を1つの方向に統率することだ」と、天馬博士は言う。そのためには”怒り・悲しみ・憎しみ”などの「偏った感情」を注入することが必要だと言う。

その「完全なロボット」が目覚めなかった理由とアトムが目覚めない理由が同じだということなのだ。したがってアトムを目覚めさせるには「偏った感情」を注入することが必要なのだが、それを行えばアトムは「怪物」となるかもしれない。それが天馬博士の考えなのだ。

ゲジヒトの抱いた”憎悪”もこの「偏った感情」の1つだ。人間とは常に「偏った感情」に翻弄される存在だ。しかし、ロボットは人間によって「偏った感情」を持つことがないように作られた存在のはずだ。しかし、ゲジヒトはこの感情を持ってしまった。
何故?

ところで、天馬博士の言う「完全なロボット」はプルートウなのだろうか?おそらく違う。
時おり登場する謎の”熊のぬいぐるみ”がいる。『005』ではこの”ぬいぐるみ”は、「この世界は、勝者と敗者、賢者と愚者、生者と死者でできているが、自分以外は敗者・愚者・死者だ。」と言う。唯一の”勝者・賢者・生者”を自認するこの”ぬいぐるみ”こそ「完全なロボット」なのではないのか。
そしてこのロボットこそ”ボラー”ではないのか?
これはぼくの根拠のない想像なのだが。

『005』の最後の部分ではプルートウの秘密らしきものが明かされる。プルートウとの戦闘により散ったヘラクレスに対しプルートウから無数の電磁波を発信されていた。そのほとんどは”憎しみ”だったという。しかし、一瞬”別のもの”が送られてきていた。
それは、・・・・

花園に1人の女性がたたずんでいる。
そして、彼女の発する「プルートウ・・・・?」という言葉で『005』は終わる。
彼女はプルートウの母親なのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

壱岐の島 新春マラソン大会

連休を利用して「壱岐の島 新春マラソン大会」に参加した。

12日に壱岐に渡り、午後から観光バスで島内観光をした。体を飛ばされるほどの猛烈な風(おそらく風速20mを超えていただろう)と雨、それに寒さの中、主だった観光地を見て回った。壱岐は3回目だったが、幾つか調べてみたいことが見つかった。
例えば「月読神社」が芦辺町にあるのだが、伊邪那岐命の三貴子の中で最も影が薄い月読命を祀った神社が何故壱岐にあるのか?
例えば「猿岩」。神が壱岐を造ったとき、壱岐が流れてしまわないように八本の柱に壱岐を結わえ付けた。それらの柱のうち折れ残ったものが現在の猿岩だという。この話は記紀にはないはずだが、「八本の柱」とは何なんだろう?
他にもこの島に残る「百合若伝説」や「神功皇后伝説」についても調べてみたい。

そして、13日。マラソン大会当日がやってきた。幸い雨はやみ、強風も収まった。

この大会、島外からも多くの参加者が集まっている。最も遠くから参加した方が表彰されたが、この方は北海道・札幌から来島されていた。また、高齢の参加者が表彰されたが最年長は何と86歳で、80歳以上の方は8名おられた。

さあ、いよいよスタートの時が来た。エントリーしたのは一般5キロ。スタートから坦々と走り出す。今回は特に野心があるわけでもなく、30分以内に完走できればよいと考えていた。しかし半分ほど走ったところで自分と同年輩と思える人がそれほど見当たらないことに気付く。この大会は20歳代以下・30歳代・40歳代・50歳代・60歳代・70歳以上という年齢グループ内で上位6名が表彰される。だから「うまくすれば表彰」という思いがチラッと頭を過ぎる。

しかしこの思いは直ちに打ち消された。折り返したランナーたちがすれ違って行ったのだがその中に多くの同年輩や年長の人達がいた。そこで自分の位置がはっきりとわかった。いっぺんで力が抜けたが、こうなれば完走を目指すのみ。折り返しからはやや苦しかったがゴールをひたすら目指す。沿道から住民たちが旗を振って声援をおくる。この大会が島のイベントとして定着しているのがわかる。

ゴールが迫ってくる。見ると前を自分と同年輩とおぼしき人が走っている。一瞬アスリートの気分になり、必死に走って追い抜く。そして、ゴール。

身に着けていたタグでタイムが自動計測され自分の記録証をもらう。24分台だった。”まあまあ”という記録だ。しかし終わってみると5キロはなんとなく物足りなく感じる。

今年中にハーフマラソンを完走する。これを今年の目標にする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

お正月が来た

「お正月」がやってきた。

子供の頃、「お正月」はなんだか分からないけど、
ウキウキと心がはずんだ。

「お正月」という唱歌の歌詞は次のようだった。

もういくつねるとお正月
お正月には凧あげて こまをまわして遊びましょう
はやく、来い来い、お正月

この歌には、「お正月」を待ちわびる子供の気持ちが
よく現れている。子供たちがそれほど待ちわび楽しみにした
のは、「お正月」が「特別な日」だったからだろう。
1年が終わり、新しい年がやってくる。
そのとき人々の心は改まり粛然とした。
「お正月」の日々は商店も全て閉まり、道路は
車もほとんど通らなかった。

ところが、いつの頃だったか元日も休まず営業する
「コンビニエンスストア」なる業態が出現する。
更には「ダイエー」が元日からの営業を始めたのを
機に多くの商店が元日営業をするようになった。
それに合わせて人々は元日から買い物をする。
街は「お正月」も人であふれている。

これで旧年と新年の境がなくなった。
「お正月」が特別な日ではなくなってしまった。

コンビニやダイエーが行ったことは、
以前から始まっていた「お正月が普通の日になる」
という変化を完成したに過ぎないのかもしれない。

しかし、人々が精神をリセットして生きていくためには
「お正月」のような特別の日が必要なのではないか。
それがなくなったために人々は古い垢を落とすこともなく、
ダラダラとメリハリなく生きるようになってしまったのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

多田富雄著『わたしのリハビリ闘争』

昨年の診療報酬改定で、発症から一定期間を経過したリハビリテーションを打ち切るという制度変更が行われた。これに対して、現実にリハビリ治療を受けていた多くの患者は反対の声を上げ、多数の署名が厚労省にたたきつけられた。この問題は国会でも取り上げられ、厚労省は一定の譲歩をしたかに見えた。マスコミでもこの問題がとりあげられることは少なくなり、私などは従前のようにリハビリ治療が続けられるようになったと思い込んでいた。

今回、多田富雄氏の『わたしのリハビリ闘争』を読み、リハビリを巡る状況が一層悪くなっていることを知って愕然とした。全く迂闊なことであった。厚労省は何の反省もしていなかった。相変わらずリハビリ医療破壊に邁進しているのである。

著者の多田富雄氏は「サプレッサーT細胞」の発見で知られる著名な免疫学者である。『免疫の意味論』という著作を読まれた方も多いのではないだろうか。ここに取り上げる『わたしのリハビリ闘争』は重度障害者となった多田氏による厚労省との闘いの記録である。

多田氏は2001年に脳梗塞を発症し、重度の「右半身麻痺」、「言語障害」、「嚥下障害」の後遺症が残り、4年間にわたってリハビリテーションを続けられてきた。

ところが昨年3月末、担当の医師より突然、「診療報酬改定により、4月より発症後180日を上限としてリハビリを実施できなくなった」と宣告された。リハビリによってかろうじて残存機能を維持することができていた多田氏はリハビリを継続できなくなったことを知った。

多田氏は直ちに4月8日付「朝日新聞」の「私の視点」に「診療報酬改定・リハビリ中止は死の宣告」という投稿を行った。この投稿で「リハビリを続けたおかげで何とか左手だけでパソコンを打つことができ、文筆生活を送っている」、「リハビリを拒否されたらすぐに廃人になる」、「構音障害に対する言語療法は180日より遥かに長い訓練が必要である」、と訴えた。

この投書は国民的共感を呼び「リハビリ打ち切り反対」の署名運動に発展した。40日余りの間に44万人を越える署名が集まり6月30日に厚労省に届けられた。

しかし、厚労省は無視を決め込んだ。その間に治療が打ち切られた事例が新聞で報道され、国会質問でも何度も取り上げられた。

やっと11月7日になって、「朝日新聞」に「患者切捨て批判は誤解」と題する厚労省医療課長個人名での反論投稿がされた。この投稿では、「制限日数を超えた患者は全国6000ヶ所の通所リハビリ施設へ移行できる」と述べられている。

直ちに多田氏は再反論を「朝日新聞」に投稿したが、朝日新聞は「同一人物が何度も登場するのは好ましくない」という理由で掲載しなかった。

この投稿で多田氏が行った主な反論は次の諸点である。
1.全国6000ヶ所とはデイケア施設の数であり、その中でリハビリを実施しているのはわずかな数に過ぎない。
2.そこで行われているリハビリも簡単な体操程度のものに過ぎずレベルが格段に低い。
3.厚労省は「回復期に重点的に手厚いリハビリを施す」とメリットだけを強調するが、一方では慢性期・維持期の患者の切捨てである。
4.厚労省は「高齢者リハビリ研究会」の専門家の「効果の明らかでないリハビリが長期間にわたって行われている」という意見を論拠としてきた。ところがこの研究会の議事録にはこのような指摘は一度もない。

全国保険医療団体連合会が9月から11月までの2ヶ月間にわたる562の医療機関に対する調査を行い、17000人余りがリハビリ医療を打ち切られている状況が明らかになった。この数字からリハビリを打ち切られた全患者数を推計すると20万人を超える。もはや厚労省は白紙撤回するほかない状況となった。

ところが厚労省は12月25日になって、社会保険事務局長宛の通達を出した。内容は、
1.リハビリを一律に打ち切ることは不適当である。
2.利用者を医療保険から介護サービスに円滑に移行させるように取り計らえ。
というものであった。一律打ち切りの制度変更を行った厚労省が、何ら受け皿にはなりえない介護保険に移行するように丸投げするものである。

このように多田氏のような患者の闘いにもかかわらず厚労省はリハビリ切捨ての政策を変更していない。多くの「リハビリ難民」が生み出されている状況が現在も続いている。

この本にはなぜ厚労省がこうした政策を打ち出してきたかの分析もなされている。ぜひ多くの方が一読されることをお勧めする。

最後に、自らのリハビリが打ち切られたあと亡くなった社会学者の鶴見和子氏の最後の短歌を2首、本書から孫引きする。

政人(まつりごとびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ生きぬく道のありやなしやと

ねたきりの予兆なるかなベッドよりおきあがることのできずなりたり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«42.195km